3/17 春旅行16日目(東京観光)
おはようございます。今日は1日東京近郊を観光する予定。JRを使わないことも多いので18きっぷは温存します。
といってもどこに行くとかプランはなかった。東京、いろいろありすぎてよくわかんないよね。真っ先に浮かんだのが上野動物園だったのでそこに行くことに。
この日の夜は、東京で唯一、人と会う約束をしていた。その人と僕の関係性は、言葉で述べるのはすごく難しいんだけど、簡単に言えば中学時代に特別な感情を抱いていた女性の先輩だ。以下、Nさんと記す。「特別な感情」というのが、恋心なのか、憧れなのか、今でもよくわからない。放っておけば自然になくなってしまうような薄い繋がりだけど、中学時代とてもしんどかった僕にとって、Nさんとの交流はすごく煌めいた記憶として残っていた。もう一度会いたい、そう思って2回生の時にSNSで繋がって会った。今回はそれ以来の再会だった。
せっかくの東京なので、月島にもんじゃを食べに行くことにした。土曜は混んでるかもしれないから、予約は取ってあった。
正直、心境は複雑だった。Nさんは、自分のことをどう思ってくれてるんだろうか。別にそんな会いたいわけでもないけど来るっていうなら会おうかな、それぐらいだろうか。てか中学時代のほんの短い記憶を、思い出をほじくり返してる自分ってすごく気持ち悪いんじゃないか、そんなことも考えてしまう。
まあでも、会ってくれるというんだから楽しもう。その方向に思考を持っていった。
待ち合わせ場所で少し待つとNさんが来た。あ、看護師って結構派手に髪染めていいんだって思った。
お店に入って、生ビールともんじゃを注文。
店員さん焼くのうま!しかも早!
それからは、もんじゃ食べながら話をした。思ったより会話は弾んだのはビールの力もあっただろうか。僕は大学のこと、Nさんは仕事のことを主に話した。
すごく、楽しかった。
お酒を飲んで少し顔が赤くなってるNさんは、やっぱりとてもかわいいな、綺麗だなと思った。
Nさんが僕にとって特別な人なのは確かだ。じゃないとこんなに薄い繋がりをいつまでも大事にしたりしない。じゃあどんな存在なのか?と聞かれるとこれは難しい。
でも、この人に会えるのなら1年に1回くらい東京に来てもいいな、と思った。それを「好き」というのなら、僕はNさんのことが好きなのだろう。
自分を納得させるための言い訳かもしれないけど、恋人じゃなくて、今の関係性が好きなんだと思う。Nさんは2つ上の先輩で。お姉さんで。僕にとってそんな関係が心地いいんだと思う。
僕はNさんのことをほとんど知らない。知ってるのは看護師だってことくらい。Nさんだって、僕のことをほとんど知らない。それは悲しいことじゃなくて、それはそれでありなんじゃないか、こんな関係もあっていいんじゃないか、と思う。
また、僕はNさんに会えるだろうか。
それはわからないけど。でも、僕はきっと、またNさんに会いたいと思うんだろう。それは確かだ。
もんじゃの店の回転ははやくて、1時間と少しでもう出ることになった。あっという間だった。もうすこし一緒にいたい、そう思ったけど、僕はNさんをつなぎとめる手段を何も持っていなかった。
「じゃあまた…またはあるのかわかんないですけど」また会いたいです、そう言葉にするのが恥ずかしくて、そんなことを言っていい関係なのかもわかんなくて、こんな言葉が出た。
Nさんは笑いながらこう返す。
「また東京に来ることがあったらね」
ここで交わされたのは、約束でもなんでもない、すごく薄い繋がりの確認だった。でもそれで十分だと思った。
そして、Nさんはこう続ける。「私はずっと東京にいるから」
それは、東京で生きていくという決意表明のように聞こえた。仕事はきついし、やめたいなんて何度も思うけど、でも私はここで生きて行くんだと。ここが私の場所なんだと。
彼女は、強い人だ。
改札を通って振り返ると、Nさんが手を振ってくれていた。僕も少し手を振り返して、そしてすぐに背を向けて歩き出した。薄い繋がりでも繋がってられたことを嬉しく思いながら。もう少し話をしたかったななんて悔やみながら。また会えたらいいなって夢見ながら。
もっくす、オタ活振り返るってよ
桜咲くたびになぜか 胸の奥があたたまるように
キミは大切なことを 笑顔ひとつ教えてくれるの
幸せは空気のようで つかめなくて近くにあって
どんな毎日もキミと 笑顔ひとつ探して歩こうーカラフルスクリーム「幸せの見つけ方」
そもそも僕はアイドルが嫌いだった。
アイドルを好きになる前の僕はバンドばかり聞いていた。もちろん今でも聞くが,バンプとかチャットとかアジカンとか。その中でもバンプは特に好きだった。彼らが紡ぐ音と詩は僕の人生に光をくれたと,今でも思っている。
その頃の僕にとって,バンドの対極に位置づけられていたのがアイドルだった。人からもらった歌を歌って,人から教えられた振り付けを踊って,曲ではなく握手券でCDを売る,それのどこがアーティストなんだ,と思っていた。特にAKB系列に関しては相当にひねくれたアンチだったと思う(今でも別に好きではないが)。
そんなアイドルアンチだった僕がどうしてアイドルオタクになってしまったのか。これまで好きになったグループを振り返りながらだらだら書いていこうと思う。
ももいろクローバーZ(2012〜)
ももクロとの出会いは偶然見た一本の動画だった。なぜか「なごり雪」が聴きたくなった僕はYouTubeで検索。すると,「ももか なごり雪」という動画がヒットした。もちろんその時点でももか=有安杏果なんてことは知らず,なんだか現代に一番近そうな動画だったのでそれを再生。
うまいとか下手とかそういうんじゃなく,何かを感じた。何かを伝えようと,一生懸命で。僕が好きな「声がしっかり耳に届く」歌だった。僕はその子の歌がもっと聴きたくなって,ネットを検索したらその子がももクロのメンバーだったことを知った。
「行くぜっ!怪盗少女」を聞いた。「ピンキージョーンズ」を聞いた。「Z伝説」を聞いた。
ハマるのに時間はかからなかった。
ももクロはとにかく僕の感情を刺激した。彼女たちの「全力さ」が魅力だった。
「逆境こそがチャンスだ」
とか,何度も聞いてきたはずなのに。彼女たちが歌うと,なぜか心に響いた。うまいとか下手とかではなく,眩しかった。
とにかくなんでもいいから,理由なんてなくていいから,元気になれる,笑顔になれる。ももクロはそんなグループだったし,アイドルってそういうものだと僕は今でも思っている。ももクロは,僕にアイドルを応援することの楽しさを教えてくれた大切なグループだ。
Dorothy Little Happy(2013〜)
2012年の暮れ,ももクロは結成当初からの目標であった紅白出場の夢を叶えた。その頃が僕の中でのももクロフィーバーの頂点だった気がする。「紅白の向こう側」を爆走するももクロを横目に見ながら,僕のももクロへの気持ちはゆっくりとフェードアウトしていった。
そんな時に出会ったのがドロシーだった。
ドロシーは僕にとって本当に特別なグループだ。この記事にもいくつかのグループを挙げているが,ドロシーに対する思いは他とは比べものにならないくらい強い。ドロシーと出会ってから,言ってしまえば僕はずっとドロシーの幻影を探しているようなものなのではないか,ポスト・ドロシーを探してドルオタを続けているのではないか,とも思う。もちろんそんなものはどこにも存在しないのだけど。
僕とドロシーのストーリーについては過去記事に大作があるので詳しくはそちらを。
上にアイドルはアーティストと呼べないみたいなことを書いたが、ドロシーによってその固定観念は完全に覆された。ドロシーは完全にアーティストだった。曲を提供されるときも、こんな曲が欲しい、ここの歌詞はこう変えてほしい、ここはこんな風に歌うといいのではないか…メンバーから意見を出して曲を作り上げていたそうだ。
ステージ上でも彼女たちの「表現」へのこだわりを強く感じた。表情、指先まで神経が通った繊細なダンス。衣装も黒、紺、白がほとんどで、丈が長めのワンピーススタイル。メンバーカラーを前面に押し出した派手な衣装、ミニスカートというスタイルがほとんどのアイドル界においてそのいでたちは言葉は悪いが異質だった。
だが、だからこそドロシーがこだわりぬいた「表現」が生きた。地味な衣装だからこそ、繊細なダンスが映えた。長めのスカートは、ターンのたびにいつでもくるくると美しく翻っていた。派手な演出も何もないステージでは、パフォーマンスが全てだった。そのパフォーマンスでドロシーは勝負した。そして、着実に歩を進めていた、はずだった。
そんな中に起きた分裂(あえてこの言葉を使う)。誰が悪いのか、はたまた誰も悪くないのか。頭がかち割れそうなくらいの精神状態で迎えた5人最後のライブでの、あの出来事。僕にはどうしても、分裂することは、この5人が自分たちで選んだ道だとは思えなかった。
大好きだったはずの曲も、聞かなくなった。
僕とドロシーのストーリー、第1章はここまで。
ミライスカート(2015~)
5人ドロシーの最後のライブの前後だったと思う、友人がUNIDOLの関西予選に出るというので見に行った。UNIDOLというのはUniversity Idolの略で、アイドルのコピーダンスサークルに入っている大学生が競い合う大会のことだ。ミラスカはその大会のシークレットゲストとして最後にパフォーマンスを披露していた。もう本編は終わっていたので僕はライブハウスの後ろの方でゆったりとステージを見ていた。だからメンバーの顔とかまではよく見えなかったのだけど、いい曲歌ってるな~と思った。
ミラスカは京都を中心に活動しているグループだ。京都感を前面に押し出していて、自己紹介は「ようおこしやす」から始まる。「はんなりポップ」を謳っていて、僕はきっとその雰囲気に惹かれたのだと思う。どこか懐かしくなるような素朴なアイドルソングが魅力だった。
ドロシーから離れた僕は、ミラスカに通い始めた。ちょうどメジャーデビューの時期と重なっていたこともあって、無銭のリリースイベントが関西各地で行われていた。ミント神戸やHMV、ガーデンズなど近くで行われるリリイベを見に行き、定期公演やワンマンにも通った。
ミラスカ以外に興味はなかったからワンマン以外のライブには行ってなかったけど、それでも月に1回くらいはライブに行っていた気がするから、かなり精力的に活動していたんだなと今となっては思う。BIGCATを埋めたり、平日にKYOTO MUSEでライブしたり、観客もかなりの数集めていて、確実に関西アイドルシーンのトップグループに位置していたと思う。
ドロシーは仙台のアイドルだったから、ツアーくらいでしかライブを見ることはできなかった。だから僕は頻繁にライブに通えることがうれしくて、ミラスカにのめりこんでいった。友達も何人か連れて行った。
しかし、2016年の3月にシングルを出してから、ミラスカの活動と歩調が合わなくなった。ミラスカが東京で定期公演を持つようになって、関西での単独ライブがほとんどなくなってしまったことがその理由だ。ライブに行くことはなくなったがミラスカのことは心の隅で応援していたし、また音源をリリースしてほしいなあと思っていた(この頃はミラスカの活動がなんだか滞っているように僕には思えたのだ)。
しかし、その年の秋に推しだったなっちゃん!の卒業が発表された。なっちゃん!最後のワンマンとなった11月のライブに半年ぶりに参戦して、泣いた。
4人だったミラスカのメンバーは、まるでなっちゃん!の卒業がきっかけとなったように、それから半年もしないうちに1人になってしまった。
なんで僕が好きになったグループはこうなってしまうんだろう。呪われてでもいるのか、と思った。
気になっていた、というのは嘘ではない。でも僕はそれっきりミラスカのライブに行くことはなかった。
ミラスカは「会えるアイドル」の魅力を教えてくれた。1人になっても活動の幅を広げ続けているまりちゃんのことは本当に尊敬しているし,今でも、遠くからになってしまったがそっと応援している。
少しの空白、@JAM EXPO2018、そして約束された場所で
その後の僕は,ミラスカの情報を追いながらも,ちょうど院試や卒論,進学のタイミングだったこともあってアイドルの現場からは足が遠のいていた。しいて言うなら,夢アドに少しハマって聞いていたが,ライブにも行かずファンというほどのものではなかったように思う。しかしまたどこかのグループをしっかり応援したいという気持ちはずっと持っていた。
大学院に進学して最初のGW,博多どんたくで全国からアイドルが集う野外ライブがあった。僕は大学院の友達と一緒にそれを見に行った。久しぶりのライブは楽しかった。夢アドの志田ちゃんと写真を撮った。
福岡のアイドルが集まるフリーライブにも何度か足を運んだ。
そんな中で,フィロソフィーのダンスや福岡のパピマシェにはハマりかけた。けど,完全にハマるところまでいかなかったのも事実だ。
その年の8月,横浜アリーナで行われた@JAM EXPOというアイドルフェスに行った。TIFとかはよくニコ生で見ていたけど,大規模なフェスに足を運んだのは初めてだった。目的は久々にミラスカを見ること,後は,東京の友達に会いに行くついで,旅行のついで,ということも正直あった。
1人になったミラスカを見るのは初めてだった。Beautiful Days,COSMOsSPLASH,鉄則Aライン,ナモナイオト,おねがい…懐かしくて懐かしくて,やっぱりどれもいい曲で,涙が出そうになった。まりちゃんとチェキも撮った。実は初めてだった。福岡からずっと応援してるよ,と伝えた。
他にもいろんなグループを見た。Fullfull Pocketは楽曲もビジュアルも正統派ですごく好みだった。でんぱ組のFuture Diverでは狂ったように踊った。まねきケチャの冗談じゃないねのうりゃおいも楽しすぎた。
そして,最後に見たのが,見てしまったのが,ドロシーだった。
ドロシーを見に行くつもりはなかった。混むだろうと思ってフィナーレの前に帰ろうと思って歩いていたその時,懐かしいメロディーに足が止まった。
ドロシーの「ストーリー」。一番好きな曲だった。
3年ぶりに見るドロシーのステージ。まりちゃんがたった1人で歌っていた。切なさと懐かしさと少しの悲しさと,そして嬉しさで胸がいっぱいになった。
家に帰ってドロシーの曲を聴いた。やっぱり大好きだった。またドロシーのライブに行きたいと思った。
そして,ドロシーとミラスカがカップリングツアーをするという奇跡のようなニュースが飛び込んできた。大阪で行われたツーマンと,ドロシーのワンマンに行った。夢のような時間だった。これまでのライブで一番楽しかった。
僕はもう一度ドロシーに出会うことができた。最後の1人の卒業を間近にして,すんでのところで「大好き」を取り戻すことができて,本当に良かった。
神様がいるのかなんて知らないけど,お前はもう一度ドロシーに出会うべきと,そうやって出会わせてくれたのかもしれないな,と思う。
これが,僕とドロシーのストーリー,第2章だ。今ドロシーは新メンバーになり新たな活動を行なっている。彼女たちには先輩たちが残した素晴らしいパフォーマンスを追いかけて,でも自分らしさを忘れずに,楽しんで活動して行ってほしいと思う。
最後に,カラフルスクリーム(2018~)
@JAMで様々なアイドルに出会ったが,カラスクもその1つだ。でもカラスクはグループとして出ていたわけではなく,新人アイドルかなんかが集う企画の中の1グループとして出演していたに過ぎなかった。しかも,他のグループが直前にキャンセルしたから枠が回ってきたというのだからここでカラスクを見られたのもそこそこミラクルだ。
特にどこのステージを見るか決めておらずふらふらしていたんだと思う,偶然通りかかったステージでカラスクが踊っていた。これだ!とビビッときたわけではない。何を歌っていたのかも今となっては覚えていないが,アイドルらしい正統派の曲に惹かれたのと(結局僕は奇をてらっていないまっすぐなアイドルソングが好きなのだ),僕は「カラフル」という言葉が好きなので,そのネーミングに惹かれたことを覚えている。
YouTubeで動画を漁ったが,さすがに知名度はまだまだ低いらしく再生数も少なかった。ただ,どの曲も可愛く楽しく,それでいて心の奥がじんわりとあったかくなるような,素敵な曲で,僕はすぐに好きになった。
ドロシーのまりちゃんが卒業してから,僕は一気にカラスクにハマっていった。しかし関西を拠点に活動しているグループだったので,ライブに行く機会にはなかなか恵まれなかった。(なんで九州に戻ってきちゃったんだ,と何度思ったことか!)
そして,今年もどんたくがやってきた。福岡にいるとなかなか東京のアイドルを見る機会もなく,様々なアイドルを見ることができるどんたくのフリーライブはずっと心待ちにしていたイベントだった。そして,その出演者になんとカラスクが名を連ねていたのだ。その他の出演者は福岡拠点のアイドルもしくは,東京拠点で夢アドやらアプガやらそこそこ名の売れたグループだった。そこに関西拠点,お世辞にも知名度が高いとは言えないカラスクがいたのである。これはもうどんたく運営にカラスクオタがいたとしか考えられない。とにもかくにもGJである。
そしてどんたく当日。無邪気ガリレオから始まったライブはとにかく楽しかった。遠征したオタクもけっこういたのか,地元でないにもかかわらずそこそこ盛り上がっていたのも嬉しかった。僕の周りにいた人たちはずっとカメラで写真を撮っていた僕が突如立ち上がって踊り始めたので驚いたことだろう…(笑)
物販ではずっと気になっていたさぶろーことさくらこちゃんのところに行った。予想通りおもろい子だった。めちゃめちゃ九州弁でしゃべったろーと思ってたのに結局コテコテの関西弁になってしまうのはなぜだろう…なぜだろう…。話すのが楽し過ぎたので2回も並んでしまった。こんなことは初めて。物販が終わった後もテントの横で暑い〜と休んでいた僕に手を振ってくれた。お土産にめんべいを勧めたらちゃんと買っていてツイッターに写真上げてくれてた。最高かよ。一生推すわ。
ちなみにその後7月にもカラスクは福岡に来てくれたんだけど、その時の特典会で、またさくらこちゃんに並んで。まあ1回しか会ってないしさすがに覚えてないだろと思ったら覚えてくれてた!これは嬉しかった!最高かよ。一生推すわ。
カラスクの魅力は何といってもライブの楽しさだと思う。無邪気ガリレオ、Sing Bird、Innocent Scream…カラスクの曲は一度見ればすぐにサビのフリコピができてしまう。これがもう楽しいのだ。そしてカラスクはただ盛り上がるだけじゃない、「エモい」曲もたくさん持っている。その筆頭ともいうべきなのが、冒頭でも引用した「幸せの見つけ方」。僕もこの曲が一番好きなのだけど、もうまずタイトルがいいよね。探し方でも作り方でもなく、「見つけ方」。探しに行かなくたって幸せはすぐ近くにあるんだよ、と。本当にいい歌です。そういえばドロシーのグループ名も、「小さな幸せに気づくような子たちであってほしい」という願いが込められていたんだっけ。こういうワードに僕は弱いのかも。
ということで当面はカラスクを追っていくことになりそう。さくらこちゃんは福岡にも積極的に来たいと言っていたし(そして実際に頻繁に来てくれている)、このグループがどこまで伸びていくのか楽しみです。今すごく活動の幅が広がっていってると思うし、あとはどこか大きなところで「見つかる」と一気に行くと思うんだけどな。
というわけでこれまでのオタ活を振り返ってみました。かる~く書くつもりだったのに6000字越えちゃった。冗長にもほどがあるわ。カモン文才。
結局何が言いたいかっていうと、とにかくアイドルって楽しいんだよってことです。元気になれる、笑顔になれる、理由なんてなんだっていいじゃない、はあー明日も頑張るかって、そういう気持ちにさせてくれるものって、そんな存在ってすごいなって思うんです。これからも、彼女たちに元気をもらって生きていきたいなと思っています。
約束された場所でーThe "story" of Dorothy Little Happy
僕にドロシーを語る資格なんてない。
とは思うけれど、これからドロシーリトルハッピーというアイドルについて書こうと思う。
ドロシーは2010年に結成された、東北・仙台発のローカルアイドルだ。2010年「ジャンプ!」でインディーズデビュー、2011年にミニアルバム「デモサヨナラ 」でメジャーデビューを果たした。しかしデビュー直前に東日本大震災が発生し、メンバーも被災。リリイベは全てキャンセルになり、地元ではCDも店頭に並ばなかった。そんな試練を乗り越え、2011年のTIFで全国のファンに「発見」され、一気に活動の幅を広げていくこととなる。
メンバーは白戸佳奈、髙橋麻里、富永美杜、秋元瑠海、早坂香美の5人。リーダーのかなちゃん、メインボーカルのまりちゃんの2人の年長組と、みも、るうな、こうみの3人の年下組という構成だった。
僕がドロシーを知ったのは2013年。「伝説」とも呼ばれているTIFのSMILE GARDENのステージだった。ドロシーは野外ステージであるSMILE GARDENで、この一大イベント全体を通しての「大トリ」のパフォーマンスを行った。そもそもドロシーはトリを務める予定ではなかったのだが、予定していたステージが突然の豪雨のため中止になり、急遽巡って来たステージだったそうだ。まさに「持っている」という感じだろうか。
このステージ、他の会場のライブはもう終わっているのでTIFに来ていたヲタクが一気に集結し超満員状態(嘘かホントか推定2万人いたとか)。ここでドロシーは「諦めないで」「nerve」「デモサヨナラ 」という3曲のアップチューンを披露する。この盛り上がりが凄まじかった。諦めないでの「DLH Let’s go!」に始まりnerveのエビゾリ、そしてデモサヨナラの「オレモー!」この3曲を持って来た采配も素晴らしかったし、ファンもそれに応え、祭りの終わりという感じで大爆発していた。僕はニコ生で画面越しにこのステージを見ていたのだけど、盛り上がりもさることながらその洗練さに惹かれた部分が大きかったように感じる。盛り上がる曲を歌っているのだが、振り付けも歌唱も決して大振りではなくとても丁寧で、完成度がとても高いグループだなあと思った。
この様子はYouTubeに上がっているのでぜひ見てほしい。
この時から僕はなんとなくドロシーを追い始めた。まだ高校生だったし、ドロシーは仙台や東京を中心に活動していたグループだったから、ライブに行くことはなく、新曲をネットで聞いたりしていたと記憶している。
そして2014年。ドロシーは2ndアルバム「STARTING OVER」を発表する。このアルバム、平成アイドル史に残る大名盤と言ってもいいと思う。メンバーも「自信作」と胸を張っていたが、これがアイドルのアルバムなのかと疑ってしまうくらい、完成度が高い素晴らしいアルバムだった。実際にその年のアイドル楽曲大賞アルバム部門で1位に輝いているし、収録曲の「恋は走り出した」は楽曲部門で1位になっている。いかにこのアルバムの評価が高かったかということを示しているだろう。(STARTING OVERについては別記事を作成中…今更感はあるけどね…笑)
ちょうど自分自身の大学進学によって行動範囲が広がった時期と重なっていたこともあり、この年僕は一気にドロシーにのめりこんでいった。関西で行われたワンマンに参加したり、Zepp Divercityのワンマンに参加したり。中でもドロシー史上最大キャパのライブとなった9月のZeppは素晴らしかった。
その中でも「恋は走り出した」。生バンドの演奏に乗って踊るメンバーと観客のコール&レスポンスの一体感。この「恋は走り出した」は5人ドロシーの一つの到達点だと思う。
ドロシーの魅力を一言で表せと言われたら、「丁寧さ」だと思う。今やいろんなコンセプトのアイドルがいて、盛り上がる曲で沸かせるアイドル、ロック調の曲でヘドバンしながら歌うアイドル、アキバ系もいればレトロ系、ミリタリー系なんてのもいる。売れるためには他とは違う何かが必要で、そのためにいろいろ考えるのだろう。そんな中でドロシーが選んだのは「歌とダンス」だった。その戦略はど真ん中直球ストレート、だからこそちょっとやそっとの球では埋もれてしまう。けれども彼女たちは自分たちをアイドルたらしめている「歌とダンス」で勝負した。「指先のさらに先の空間まで躍らせる」と形容されたしなやかで整ったダンス、まりちゃんを中心に、時に観客を座って聞かせることもあったひとつひとつの歌詞に情感を乗せた歌。うまい下手、というのは見る人によって感じ方が違うと思うけど、ドロシーの歌とダンスはとにかく丁寧だった、と思う。
アイドル戦国時代と呼ばれて久しいが、たくさんのアイドルがひしめく中でも、ドロシーはロコドルながら「東のドロシー」「東北の雄」と呼ばれ、その地位を不動のものにしていた。一般層に知られるまではなかったと思うけれど、例えば源頼朝が最後まで攻めあぐねた奥州藤原氏のような感じで、天下統一を目指すアイドルがいたとして「東北にはドロシーがいるからなあ」と言わしめるくらいの存在感はあったんじゃないかなと思う。
この頃のドロシーは本当に楽しかった。少しずつでも大きな会場でライブができるようになっていって、彼女たちが目標にしていた武道館も、このままいけば本当に実現できるかもしれないと思っていた。そんな飛躍の年となった2014年の暮れにはミニアルバム「circle of the world」を発表。リードトラックの「それは小さな空だった」は作詞曲の坂本サトル(彼はドロシーの初代プロデューサーであり、ドロシーの名付け親でもある。ドロシーの世界観は彼抜きには語れない)が「いろんなところで曲を書いてきたが、自分がこれまで書いた曲の中でも3本の指に入る」と豪語していたが、遠距離恋愛のカップルの心が少しずつ離れていく様を丁寧に描いた名曲である。
2人の知らない風が 吹き始めた
あなたは それを止めようとはしないの?-Dorothy Little Happy「それは小さな空だった」
いつのまにか2人の間には知らない風が吹き始めていて、そしてその風を2人とも止めようとしない-今になって思うと、この曲が発表された半年後の未来を暗示しているようで切なくなってしまう。ドロシーが一気に階段を上ったこの年の暮れには、既に「5人の知らない風」が吹き始めていたのだろうか…。
そして2015年。4月に発表されたみも、るうな、こうみの「年下組」3人の卒業。3人は高校卒業を機に2014年の12月からグループ内ユニットcallme(現kolme)を結成していたのだが、今後はその活動一本でいくため卒業する、というのが理由だった。ドロシーはかなちゃんまりちゃんの2人で活動を継続する、と発表され、事実上の分裂のような形になってしまった。それはまさに青天の霹靂というもので、衝撃、というよりもう受け入れられなかった。表面的な言葉だけが紡がれはっきりと語られない卒業の理由、どうして?の答えは最後まで見つからなかった。
そして、3人の卒業ライブを迎える。会場は中野サンプラザ。ライブは、楽しかった、のだと思う。正直よく覚えていない。でもこれが究極の5人ドロシーだ、というものを見せてくれたと思う。
だからこそ、最後はきつかった。多くは書かないけど…。その時、僕の中で何かが壊れてしまった気がした。
今ならばわかる。5人とも本当にドロシーが大好きで、ドロシーに本気だった。だからこそ、譲れないものがあったのだ、と。自分たちではどうしようもない“大人の世界”ってものがあって、それに翻弄されていたのだ、と。でもその時の僕は、大好きだったものがこんな形で変わってしまうことに、耐えられなかった。もう見てられない、と思った。そして僕はドロシーを心の奥底に封印した。いつしか、曲を聞くことも、ライブ映像を見ることも、なくなった。
ドロシーから離れた僕は関西・京都を中心に活動していた「ミライスカート」というアイドルに通うようになった。そしてこのミラスカとドロシーは、後に不思議な縁でつながっていくことになる。
そして、3年の月日が流れた。
2人になったドロシーはいつのまにかまりちゃん1人になっていた。
僕は、何も知らなかった。
2018年、昨年の8月末の@JAM。国内最大規模のアイドルフェスに僕は来ていた。フェスはフィナーレの時間を迎えていて、僕は混まないうちに帰ろうと思ってメインのホールを出て、アリーナ内を歩いていた。その時、近くのステージから懐かしいメロディーが聞こえてきた。
その曲は「ストーリー」。名曲揃いのドロシーの楽曲の中で僕が一番好きな曲だった。
ストーリーにはドロシーのいいところが全部詰まってると思っている。瑞々しく、どこか切ない王道のアイドルソング。聞いているだけで身体が動き出してしまうようなメロディー。サビの指揮棒を振るような振り付けも大好きだった。
足が止まった。
3年ぶりに見るドロシーのステージ。まりちゃんが1人で踊っていた。後ろの方で全然見えなかったけど。懐かしさと切なさで胸がいっぱいになった。
「ストーリー」は恋する女の子の初々しい気持ちを歌った曲だけど、ライブで聞くと、まるで僕らファンがメンバーに向けて思いを伝えるような曲になる。
知りたいんだ 君が描くストーリーを
早く次のシーンを撮ってよ
想像の上の上 毎日が名場面
恋するジェットコースターは
もう止められないって感じ!
四六時中 春夏秋冬 まるごと
きみとふたりで-Dorothy Little Happy「ストーリー」
あの頃、僕はドロシーが描くストーリーを追うのが楽しくてしょうがなかった。ストーリーを聞くたびに、ドロシーは次にどんな景色を見せてくれるのかワクワクした。そして、ずっとドロシーのストーリーを追い続けていくんだと思っていた。
ストーリーの最後はこんな歌詞だ。
嬉しい時も
悲しい時も
楽しい時も
泣きそうな時も
全部全部 一緒に感じてたいよ-Dorothy Little Happy「ストーリー」
この歌詞を聞いたとき、胸を撃ち抜かれる思いがした。「全部全部 一緒に感じてたい」このフレーズが、自分に向かって訴えられているように感じたんだ。僕はこの3年間、何をしていたんだろう。悲しい時も、泣きそうな時も、ドロシーから目を背けていた。ドロシーのストーリーを終わったことにしてしまっていた。
ドロシーファンの方がこんなことをブログに書いていた。
「中野で止まった時計の針」こんなことを多くのアイドル評論家達も書いている。それは違う。止まっていたんじゃない、勝手に止めていたんじゃないか。
その通りだ。あの中野以降も、ドロシーの時計の針は動いていた。2人になっても、1人になっても、ドロシーは歩みを止めていなかった。止めていたのは他でもない、自分自身だ。勝手に見ないことにして。見ないようにして。歩みを止めたのはドロシーじゃなくて、僕だったんだ。
冒頭にドロシーを語る資格なんてないと書いたのはこういう理由からだ。僕はファンが最も彼女たちを支えてあげなければいけなかった3年間、ドロシーを見ていなかった。目を背けていた。いつのまにかかなちゃんが卒業していたことも、一夜限りで5人復活ライブが行われていたことも、何も知らなかった。知ろうとしなかった、クソッタレだ。こんな奴がドロシーの大ファンだなんて言ったら罰当たりもいいところだ。
もちろん、応援するかしないかはその人の自由だ。好きになったものをずっと応援しなければならないということはないし、それが美しいなんてこともない。でも、だけど。僕はドロシーを見続けるべきだったと、そう思う。
ドロシーを続けることを決め、歌い続けた2人に申し訳ない、ということもあるけど、実際のところ僕1人がファンを続けたところで財力もないしコミュニティもないし貢献できることなんて高が知れている。誰に申し訳ないか、と言われたらそれは過去の自分に、だろうか。ドロシーから貰えたはずのたくさんの「小さな幸せ」を失ってしまった過去の自分に。
家に帰って、もう一度ドロシーの曲を聴き始めてから、5人時代のライブ映像を見返すのと同時に、僕が知らない、2人時代のドロシー、1人時代のドロシーの新曲も聴いた。
大好きだった。
特に「バイカラーの恋心」なんて、控えめに言っても大名曲ですよ。ほんと大好き。
そう、2人のドロシーだって、1人のドロシーだって、僕はちゃんと好きになれたのだ。やっぱり大好きだったのだ。それを僕は見ないまま終わってしまった。見ようとすらしなかった。それはとても悔しいことだ。
もう一度、ドロシーのライブに行きたい。いつしかそう思うようになっていた。
時間はなかった。たった1人でドロシーを守ってくれていたまりちゃんも、年内での卒業が決まっていた。卒業公演はsold outしていたし、東京に行くだけの財力はもう僕には残っていなかった。いや、本当はまだ、ドロシーのためだけに多大な出費をすることに迷いがあったのかもしれない。
そんな時、“ドロシーとミラスカがカップリングツアーをする”という奇跡のようなニュースが飛び込んできた。
ドロシーと同様にミラスカも、メンバーの卒業が重なったことで最終的に1人になり、グループの看板は下ろさずにソロユニットとして活動していた。しかも、残った1人がどちらも「まりちゃん」というのはあまりにも出来すぎだろう。
ミラスカしかり、ドロシーしかり、メンバーが減っていくのはとても辛いことだったけれど、そのおかげでできた「縁」が僕の背中を押してくれた。よくできてるもんだなあ、と思う。
10月27日昼のドロシーとミラスカのツーマン、夜のドロシーワンマン、そして翌28日の草津でのフリーライブ、これが僕がドロシーのステージを見る最後の機会になった。
ライブについては多くは書かない。だけど、これだけは言える。最高に楽しかった、幸せだった!と。いろんなアイドルのライブを見てきたけど、エモさで言ったら間違いなくトップだった。
なんだか、自分がここにいることはずっと前から決まっていたんじゃないか、そんな気がした。いろんなことが巡り巡って、そして僕はここにいる。この場所は、約束された場所なんだ。ここは彼女たちが目指していた武道館じゃなくって、たった100人も入らない小さな小さなライブハウスだけど、ここで見た景色をずっとずっと覚えておこうと思った。一生、忘れたくないと思った。
強烈に記憶に残っているのは、「デモサヨナラ」だ。メジャーデビュー曲にして、10年代のアイドル界に燦然と輝く最強のアンセム。「好きよ」に合わせて「オレモ―!」と叫ぶコール&レスポンス。何度も叫んできた「オレモー!」に、この時はこれまで以上に感情が乗った。
好きよ 好きよ 今まで会った誰よりずっと
好きよ 好きよ あの日のまま
好きよ 好きよ ずっとあなたのそばにいたいけど
好きよ 好きよ デモサヨナラ-Dorothy Little Happy「デモサヨナラ」
この歌詞は、僕らがまりちゃんに伝えたいことそのままじゃないか。「オレモー!」と叫びながら、そんなことを思った。
3年の月日が流れても、あの日のまま、ドロシーはドロシーだったこと。今まで会ったどんなアイドルよりもドロシーが好きで、本当はこれからもずっとあなたを見ていたいこと。でも、デモサヨナラなんだってこと。そんなことを伝えたくて、僕らは叫んでいるんだ。
曲のラスト、まりちゃんの「みんな、大好き―!」に応えて「俺も!まりちゃんが!大好きだ―!」と返す。ヲタクがこれだけ好きと伝えられるなんて、この曲は本当にすごい曲だな、と改めて思った。
ギリギリのところでまたドロシーに戻ってこれて本当に良かった。またライブを見ることがあるなんて夢にも思わなかった。1人でもドロシーを続けてくれたまりちゃんと、ドロシーまりちゃんを大阪に呼んでくれたミラスカまりちゃん(紛らわしい!笑)には本当に感謝しかない。おかげで、僕は一度見失ってしまった「大好き」をすんでのところで取り戻すことができた。
まりちゃんはこう言っていた。「私がドロシーを卒業しても、ドロシーの曲は残ります。ドロシーの曲が皆さんの日常に流れていたら嬉しい」
音楽のいいところは、歌う人がいなくなっても、ずっと残り続けるというところだ。きっと、ドロシーの曲はこれからも、僕の少し憂鬱な日常を隣で見守っていてくれるんじゃないかと思う。
ドロシーリトルハッピーの紡いだストーリー。それは決して最高のハッピーエンドでも、僕らが望んだ結末でもなかったかもしれない。それでも、このストーリーを体験できた僕らは幸せだった。今はこう言いたいと思う。
(この文章は実話をベースにはしていますが、少なからず脚色や「盛り」もあります。あくまでフィクションじみたものとして読んでもらえると幸いです)
3/12 春旅行11日目 六甲道〜下呂
おはようございます。今日から再び旅立ちます。今日明日は友人2人と一緒に下呂温泉へ。しばしの贅沢旅。
しかし使うのはやはり18きっぷ。
六甲道からは友人1人と一緒に出発…ってなんでやねん!お前はもう実家(奈良)に引き払ってるはずでは??と疑問を呈すると春休みは大体彼女の家に泊まっているとのこと。爆発しろよもう。
大阪でもう一人の友人と合流。岐阜で途中下車して昼飯を食うことに。
ネットでおすすめされてた駅近の親子丼を食った。卵がふわとろで美味しい。
岐阜駅、パタパタ式の広告版があった。横から見てると楽しい。
さてここからは下呂まで高山本線の旅である。これまで僕が乗ってきた路線の中で、ダントツで車窓が素晴らしかった路線。
高山本線の魅力は何と言っても鉄橋。撮り鉄には格好のポイントだし、乗ってる側としても川の上を走ってる気分になれる。
飛騨金山〜焼石間は特に絶景区間で、風がなければこんな景色が見れる。ああ、一眼レフ…以下略。
というわけでのんびりゆったり下呂に到着。
下呂駅近くからもよさげな写真が撮れる。ああ、一眼レ…以下略。
ホテルに一旦チェックインして、夜ご飯を食べに散策へ。
飛騨牛のひつまぶしをいただく。ひつまぶしはそのまま、薬味と一緒に、最後にお茶漬けにして、という3つの食べ方があるのだけど、友人1はそのままが好きで、友人2は薬味が好きで、僕はお茶漬けが好きという面白い感想になった。
飯の後は近くの温泉へ。クアガーデン露天風呂というとこに行ったんだけど、
まじで露天しかなかった。
洗い場も外なのは正気かと思いましたね。めちゃ寒かったですね。でも温泉は控えめに言って最高。外気が冷えてるし、適度なぬるさの風呂もあったので、永遠に浸かってられると思ったわ。
風呂からの帰り道、花火が上がってた。花火の写真を撮るのは難しい。
ホテルに帰って、3人で晩酌。積もる話も積もらない話もしたんだと思うけど、あんま覚えてない。男同士の飲みなんてそんなもんだ。
3/10 春旅行10日目(鳥取〜六甲道)
旅行の前半の最終日がやってきた。ここまで長期の旅行となってくると、さすがに身体がしんどくなってきていたので、今日は少しだけ散策してさっさと帰るつもりでいた。
まずは朝ごはん。昨日のお姉さんが紹介してくれた「森の生活者」でベーグルをいただく。
トマトとチーズのベーグル。ほかほかもっちりでおいしい。
行き帰りでアーケードを歩いたんだけど、土曜とは思えないくらい閑散としていた。そしてそこに大音量でウルトラソウルが流れていた。これほど不釣り合いな曲もないんじゃないか。
ホテルをチェックアウトして、店長が教えてくれた鉄道公園へ。
昔の鳥取駅のホームが保存されていた。ホームに座ってタバコ吸ってたおっちゃんが「ここに観光客が来るのか!」みたいな目で見てきた。
さて、予定していた駅近の散策は終わったのだけど、意外に元気だったので少し足を伸ばして砂丘に行くことに。せっかく鳥取に来たからね。
予想以上に砂漠だった。空と海と砂の共演が美しすぎる!
そして予想以上にアップダウンが激しかった。もうこれほとんど崖だろ。
しかしこれを見てしまったからには登らないわけにはいかない。なぜ山に登るのか?それはそこに山があるからだ!
めちゃしんどかった。一気に体調悪くなったわ。
上から見たら池が水鏡になっててミニウユニ塩湖みたいだ。この旅は本当に水鏡には恵まれている。
息も絶え絶えになって砂丘を後にし、昼飯にありつくことに。
日本海の魚の味がした!…なんてことはなかったけどうまかった。
まだ帰りのバスまで時間があったので近くの砂の美術館に行ってみることに。
すごい!これはワクワクするぞ!
あ、はい。
パネル展は無料だったので見て来たけど、やっぱり実物を見たかったなあ〜。なんでも、1年のうち3ヶ月くらいは制作期間でお休みらしい。是非リベンジしたい。
というわけでちゃっかり鳥取を満喫して鳥取駅に舞い戻る。朝に来た時、大声で独り言をしゃべってたおっさんがまだ全く同じ場所でしゃべってた。怖えよ。
帰りのルート、実は18キッパーにとっては少々難儀なものとなっている。最短ルートの一部が智頭急行という私鉄なのだ。当初は迂回するルートで帰るつもりだったけど、体調もしんどいので、智頭急行に課金して帰ることに。
智頭でJR線といったんおさらば。
全線を乗り通すだけで元が取れるフリーきっぷを購入。
途中、恋山形という駅で6分間停車したんだけど、
すげえピンクだった。運転士さんが「降りても構いませんよ〜」と言ってくれたので降りて写真を撮ることに。この運転士さん、濃いフレームのメガネにヒゲも生やしててだいぶ強面だったんだけど、優しかった。
気合い入ってたけど、こんな田舎の無人駅にだれか来るのか?
と思ってたけど、駅の入り口で2人組の女の子が写真撮ってた。びっくりした。割と有名になってるのだろうか。
その後は特に何もなく六甲道に到着。
帰って来たどー。なんか安心するね。
これで春旅行の前半は終わり。明日は休んで(といっても競馬に行ってそのあと飲むので全然休んでない)、明後日からは東日本を攻めて行く。
3/9 春旅行9日目その2(江津〜鳥取)
三江線に別れを告げ、山陰本線に乗り換え。ここから出雲市を目指す。
基本的にJRの駅には「市」が付かないという認識だったからなんか違和感があった。出雲じゃだめだったのか?
ポスターが素敵だった。「神様までもう少し」
出雲まできたら行くところは決まっている。出雲大社だ。縁結びしてほしいからね、切実に。
でーん。
パワースポットなだけあって空気が澄んでる気がする。気持ちがいい!
出雲大社は4拍手するらしい。
きっちりお願いしてきました。
出雲大社に来てるのはカップルか女性グループって感じで、男1人だとアウェー感がやばかった。てかカップルがなんで縁結びのお願いしに来るんだ。ここは安産祈願じゃねーぞ。
出雲は「日が沈む聖地」とうたっていてこんな看板が各地に置いてあった。
昼過ぎに出雲を後にして、本日の宿である鳥取に向かうことに。
車窓の宍道湖がとても綺麗だった。なぜこれで「しんじ」と読むのだろうか。難読すぎる。
途中米子で乗り換え。空に向かって飛んでいきそうな素敵なオブジェだ。この前では中学生くらいの子が必死にリフティングの練習をしてた。
少し時間があるので待合室で休むことに。
ん?
何やら見覚えのある顔。
三江線で出会った神大生3人組にまさかの再会。こんなことってある?聞けば、彼らは松江城に行っていたそう。これから、特急やくもに課金して、神戸に戻るそうだ。電車の待ち時間で、学部や将来などお互いのことを話した。遠く離れた地で、こうやって馴染みのあるものや人に出会うことが、こんなに安心感をくれるものだということを知った。
なんだか、またどこかで会えるかもわからんなと思った。出会いに圧倒的感謝。
米子からは「とっとりライナー」で鳥取へ。
コナントレインが来た。
鳥取到着!長い旅路だった。
本日の宿は、Y Pub & Hostel TOTTORI。ドミトリーに一人で泊まるのは意外にもこれが初めてだった。
部屋はこんな感じ。カプセルホテルっぽい。
共有スペースでアメリカ人のオケとイギリス人のライアンと出会った。オケは日本語をだいたい話せたから、コミュニケーションがすごくスムーズに取れて、すぐ仲良くなれた。楽しい!
夕食は下のパブでいただく。スタッフのお姉さんの「カレーできたよー」という親近感が心地いい。
この後は、23時過ぎまでパブでくっちゃべってた。オケとライアンからは、これから行こうと思ってる場所のおすすめスポットを聞いた。
そういえば、ここでもすごい出会いがあった。パブで一緒になったゲストのお姉さんの元同僚が、このゲストハウスでヘルプで働いていて、再会したと言うのだ。もちろん連絡を取っていたわけじゃないので、偶然である。しかも一緒に働いてたのは東京。ここは鳥取。すげえよ。
近くに住んでて、ヘルプで来ていたお姉さんとは、大学で学んでいる(いた)ことが似ていたこともあり、すごく盛り上がった。鳥取のおすすめスポットもたくさん教えてもらった。
すごく楽しくてあっという間に時は過ぎて行った。
出会った人それぞれいろんな生き方があって、どれもすごく素敵だなと思った。
1泊だけしかしないのがすごくもったいない、またいつか必ず来ようと強く思った。
23時すぎに銭湯に行って、就寝。
今日はすごく中身の濃い1日だったと思う。明日は鳥取を少し散策して、神戸に舞い戻る予定。
3/9 春旅行9日目その1 三江線(三次〜江津)
廃線ー
それは僕にとって、大きな意味を持つ言葉だ。
僕が廃線というものを肌で感じたのは、2008年の島原鉄道南線廃止のときだった。当時、僕は小学6年生だった。
小学5年生の時に佐世保から島原に引っ越した。佐世保から島原までは3時間もかかり、遠かった。その遠い遠い道を繋いでくれたのが、島鉄だった。
おそらく、僕が初めて1人で電車に乗ったのは島鉄だと思う。島鉄はそんな僕のことをいつでも目的地に送り届けてくれた。
僕の家は島原駅の目の前だったから、島鉄は本当に近い存在だった。車の方が速いとか、日本一高い私鉄とか言われるほどのローカル線だけど、僕は島鉄のことが大好きだった。
島鉄はかつて、観光トロッコ列車という観光列車を走らせていた。僕も島原に来てから、何度か乗ったことがある。帽子が飛びそうな風、近くで鳴る踏切の音の大きさ、潮の匂いー今でもありありと思い出すことができる。
島原は、雲仙普賢岳の噴火で大きな被害を受けた。トロッコ列車は、その復興のシンボルだったと思う。トロッコ列車の中では、ガイドの人が沿線の説明をしてくれる。その中で、噴火災害と、そこからの復興を僕は知った。今こうして走っているところに、土石流が流れた過去があったこと。火山灰が降った過去があったこと。そしてそこから立ち直ったこと。トロッコ列車は、島原という土地の魅力と力強さを教えてくれた。
そんな島鉄の一部が廃線になる。そのニュースを聞いた時、僕はほんの少ししか島原にいないけど、すごくショックだった。廃止されるのは普段僕は使わない路線だったから、直接生活に影響はなかったんだけど、トロッコ列車は廃止になった。
その年の夏、僕は一枚の絵を描いた。
応募した賞は、「島原市観光年賀はがきコンクール」最優秀賞を取れば、翌年、島原市が作成している観光年賀はがきに絵が載るというコンクールだった。
僕はその絵の真ん中に、大きくトロッコ列車を描いた。
翌年から廃止が決まっているトロッコ列車を描くということは、最優秀賞がもらえないということと同義だ。なぜなら、もうそこには存在しない観光資源を描いているのだから。
でも僕は描いた。描かずにはいられなかった。僕にとって、島鉄は、トロッコ列車は、とても大切な、大好きな存在だったから。
結果、僕は優秀賞をもらった。
トロッコ列車を描いていなければ、最優秀賞を取れたとは言わない。でも、きっと選考した方々に、賞状を渡してくれた市長に、島鉄が、トロッコ列車が、大好きな子どもがいることは伝わったのかなと思う。
前置きが長くなりました。
ただ今午前5時。当然外は真っ暗。街灯もないからかなり怖い。なぜこんな時間に外を歩いているのかというと、この3月末で廃線となるJR三江線の始発電車に乗るためだ。
5時38分発、江津(浜田)行き。江津に着くのは9時31分で、3時間のロングランだ。僕にとって最初で最後の三江線乗車になる。
僕は三江線に縁もゆかりもない。でも、もう二度と見られない「三江線がある景色」を見ておきたかった。
5時台という早い時間に関わらず、既にホームには多くの人が列を作っていた。
そして、一両編成の小さな車体が静かにホームに滑り込む。
席はすぐに埋まり、立ち客も出るほどの盛況ぶりだった。
発車してしばらくは闇の中。景色も何も見えなかった。
広島と島根の県境の口羽駅で、三江線では珍しい列車の行き違いがあった。
ここでなんと27分の停車。多くの乗客が降りて散策を始めたので、僕も降りてみることに。
朝早い時間の空気がみずみずしくて気持ちがいい。
口羽駅では、三江線グッズの手売り「三江線マルシェ」が行われていた。
廃止路線のうち、口羽駅〜宇都井駅間を保存するために活動している地域の団体が企画・作成したグッズだという。
せっかくなので自費出版の写真集と、手ぬぐいを買った。活動の一助になるなら嬉しい。
三江線全線開通の記念碑も立っていた。今後地元の人はどんな気持ちでこの碑を見るのだろう。
ここでは、もう一つ驚きの出会いがあった。先ほどの手売り会場で、若者3人組が店主と、「学生で、春休みなので〜」みたいな話をしているのを横で耳にして、「おお、同類がいる!」と嬉しくなって、声をかけてみた。
「どこからいらっしゃったんですか?」
「兵庫の方です」
「あ、僕もなんですよ。ちなみに大学は?」
「神大です」
「一緒じゃないっすかああああ!!!」
いや、これはびっくりした。こんなことがあるのかって。なんだってここはあと20日で廃駅となる無人駅だぞ、こんなことがあるのか。ほんとにびびった。もう面白すぎて、ここには載せれないけど写真も撮った。出会いに圧倒的感謝。
駅があることで、線路があることで、人と人が出会い、繋がる。
三江線がなければ、僕は一生彼らに会うことはなかったと思うし、彼らにとってもそうだ。消えゆく路線は、まだまだ新しい出会いを生み出している。
口羽駅を出ると、江津までノンストップだ。途中、数人の剛の者が下車して行った。次の電車まで5時間くらいあるが、本当の強者だ。
116段の階段を登らなければ駅にたどり着けない「宇都井駅」では、なんと何人かの剛の者が乗車してきた。断っておくがこれは始発電車である。今までどこにいたんだ。周り田んぼしかないけど。昨日は雨だったけど。
江の川に沿って、電車はゆっくりと進む。そして、定刻で江津駅に辿り着いた。
最初で最後の三江線、完乗完了。
電車に揺られながら、鉄道ってなんだろう?そんなことを考えていた。
そこに鉄道が走るということは、世界と繋がっているということだ。かつて島鉄が僕と故郷を繋いでくれたように。
本当は、車や飛行機があれば電車などなくても何処へでもいける。でも、
「線路は続くよ、どこまでも」
そこに線路があることで、自分と世界のどこかが繋がっていることを視覚的に、はっきりと実感できる。鉄道とは、そんなものではないだろうか。
途中、地域の人が沿線から列車に向かって大きく手を振っているのを何度か目にした。三江線もきっと、たくさんの人と世界を繋いできたんだと思うし、地域の人に愛された路線だったんだと思う。
乗ってよかったな、心からそう思った。